身近にいそうな誰かの人生観をはじめとしたキャリアストーリーをお届けするインタビュー記事。第五回は、大手米国IT企業でエンジニアとして働くHiroさん。エンジニアとして日本での就業を経て、いかにアメリカで就業するまでに至ったのか、学生時代の想いの変化から振り返っていただいた。
「THE 日本企業」に教わったこと
高校時代から理系科目が得意だったので、付属で進める早稲田の理工に行こうと思っていました。
特にやりたいことはハッキリしていなかったけれど、その後の道を自分の意思で選べそうなところに行こうと思って。
結局「電気・情報生命工学科」という、名前からして勉強内容がいまいちわからないところを選びました(笑)。
建築とか数学とか土木とかは名前からすでにやることが決まっている印象でしょう? 電気、情報、生命工学……将来を考えるときに、何かにひっかかるかなと。
大学時代はそうですね、サークル3割、学業4割、残りはアルバイトかな。
サークルも一つだけに絞りたくなったので、ジャズバンドのサークルと作曲メインの音楽サークル、あと国際系交流サークルをかけもちしていました。
「これだけ」って限定してしまうことに恐怖感があったんですよね。世界がせまくなりそうで。
就職活動を意識しはじめたのは大学3年のとき。
夏ごろに就活支援団体のイベントに参加して、意識を変えたほうがいいのかなと少しずつ“将来のこと”を身近にとらえようとしてきました。
就活をスタートさせて、まず東京電力で2カ月ほどの長期インターンシップをしたのですが「THE 日本企業」という雰囲気が性に合わず……。
飲み会の出席率が評価につながるとかありえないじゃないですか!
考え方が古い企業だと空気を読むのが当たり前ですし、人があまり干渉せず、自由にやらせてもらいながらパフォーマンスで評価されたいと思っていたので、外資の金融企業やIT企業、ベンチャー企業の営業職をメインで受けていました。
このときはまだ、エンジニアの道は考えていなかった
就活対策はきっちりやっていたので最終面接まではいくんですが、なかなか“ご縁”をいただけずにいました。
いま思うとテンションや空気感が違うって思われてたのかもしれませんね。
だんだんと営業向きではないような気がしてきて、「……俺ってエンジニアタイプなの?」と思うようになりました。
そこで4年の夏ぐらいから、プログラミングの長期インターンシップを始めました。ソースコードをガリガリ書いて、とにかく現場でスキルを身につけることに集中。基本情報技術者などの資格試験も受けました。
まわりの友達の勧めもあり、早稲田の大学院に進むことになります。
中学や高校からプログラミングをしている人と同じ土俵にのることになるので大変でしたが、一人でサービスを作ることの面白みや醍醐味に惹かれました。
「海外で働く」という道が急浮上
院卒の就活では外資系金融、外資大手IT企業、日系大手IT企業からオファーをもらいましたが、この時点では「技術者としてのスペシャリストになる!」と決めていたことから外資大手IT企業を選びました。
最初の1,2年はサポートエンジニアとして働いていました。
技術レベルが高い+いい人たちばかりだったので楽しくやっていましたが、「現場の技術職は中国・インドから人を雇えばいい」という会社の意向で日本人が削減されることに。
会社から「日本人であることを生かせるようになりなさい」と言われたのを覚えています。
その後、テクニカルアカウントマネージャーとして、クライアントとの折衝、交渉を担当することになりました。
顧客窓口となってエンジニアをサポートするポジションになり、このままやっていても技術力を高めたかった自分の将来が見えてこないジレンマに陥ってしまいます。
そんなとき米国本社の日本人ソフトウェアエンジニアと話す機会があって、現地の就労環境を聞いたところ本当に魅力的で。
待遇がよく、尊敬され、ワーク・ライフ・バランスもしっかりとれているみたいで「これは現地に行くしかない」と、海の向こうに想いを馳せるようになりました。
ただ、本社のエンジニア職は超人気で、社内公募で異動希望を出したもののグローバル全体における日本のプレゼンスが低いため採用は至難の業。
そもそもアメリカで働くにはビザが必要なので、書類選考すら通りません。そこでまずはアメリカの大学に留学をして卒業し、現地企業に就職する計画を立てます。
アメリカの大学に留学するには、その学校の試験の他にも日本におけるセンター試験的なものや、日本の卒業大学の教授からの推薦状が必要とのことで正直面倒だったんですが、CAREER PLANTSのディレクターである関島さんに「どうせやるなら上を目指した方がいいんじゃない?」と言われて一念発起!
結果的にコロンビア大学に入学することになりました。
インターンシップ先の選定は入学直後から
入学したデータサイエンス学科は設立されたばかりで、いろいろなバックグラウンドを持った人を受け入れていたのが面白かったです。
本当はコンピュータサイエンス学科に行きたかったんですが、バックグラウンドが情報系でなかったので難しかったですね。
学費が年間600万円ぐらいかかるので週20時間はアルバイトをしていましたし、食費をおさえるために学校で出る無料の食事を持って帰ってました。
ただ、常に一定の成績が取れていないと退学になってしまうので、勉強とレポートに追われる毎日でした。
それと並行して、インターンシップ先を早めに探していました。
就活するには卒業時点でいくつかの会社でインターンシップを経験していることが条件になるので、留学直後から始めても早すぎることはないんです。
運良く半年ぐらいでGoogle からインターンシップのオファーをもらえました。
100社ぐらい受けましたが、3社程度(indeed、Amazon、Google)しか面接にいけなかったぐらいの激戦。アメリカで働きたい外国人が多くて倍率が上がったようですが、私の場合、面接官との相性に救われました。
技術面を突っ込まれても、コミュニケーション力を含めて総合的に人間性を見てもらえたのが大きかったです。
そして本格的な就職活動がスタートします。就労ビザが必要だったので、そのあたりに慣れている会社となると大手狙いでアプローチ。
結果的に大手米国IT企業のエンジニア、サポートエンジニア職、スタートアップ企業のエンジニア職にて内定をもらうことができましたが、業務内容や事業規模を考えて大手米国IT企業のエンジニアに即決しました。
術力は世界のどこでも行けるパスポート
大手米国IT企業ではプロジェクトマネージャーが方針を決め、プロダクトのUIやUXはデザイナーが担当。
自分たちのようなエンジニアはテクニカルサイドでプランニングして、ローンチに向けてスケジュールを組んでいくイメージです。開発業務だけでなく、企画や生産工程を俯瞰できるのは本当にいい経験です。
ただ、最終的に“ビジネスとしていかに影響を与えるか”という点まではよくわかりません。
とにかくクオリティの高いものを作ることを求められるのが自分たちのミッション。
分業されている感覚が強いですね。
海外で働くことを視野に入れている方に言いたいのは、就労ビザが大きな障壁になるので、アメリカだけでなくそれ以外の国も視野に入れた方がよいということと、とにかくスキルを磨けば海外がぐっと近寄ってくるということ。
特にアメリカの場合、エンジニアとしての技術力をとにかく見られます。開発スキルに関しては国境という概念がないので、あるところで秀でれば必ず評価されますし、日進月歩の世界だけあって常に最新の技術をキャッチアップしていくことが必要です。
どれだけ逆風が吹いていても、自分がやりたいと思ったことに対してひたむきに向き合うことで必ず運が巡ってきます。
まわりの人も助けてくれますし、自分にも自信がつく。
それまでやり続けることが大切だと思っています。