地域との関りから見出した 新時代の公務員としてのキャリア

身近にいそうな誰かの人生観をはじめとしたキャリアストーリーをお届けするインタビュー記事。第19回は、川崎市市役所で勤務しながら、市民活動を積極的に取り組む奥貫賢太郎さん。幼少期の地域での経験、大学時代の留学や公務員として働くに至った大学での転記、現職での様々な体験をはじめ、現在までのキャリアを語っていただいた。

 

地域に育てられた幼少期を経ての学生時代

 

埼玉で生まれ、幼稚園からは川崎で暮らしていました。川崎大師が運営している幼稚園に通っていたので、毎朝般若心経を唱えたりお茶の淹れ方を教わるなど、小さなころから日本独自の文化がすぐそばにありました。

 

小学校から中学校まで、日曜午前は川崎大師の敷地内にある寺子屋(名称:日曜教苑)に通っていました。当時は小中学生が70100人(各学年1020人)、学区を越えて3つのエリアから通ってきていました。

 

寺子屋では高校生・大学生のボランティアや川崎大師のお坊さん、職員さんが一緒に遊んでくれたり、仏教に関わる諸々を教えてくれました。それでいて月謝は5,000円。親のサイフにも優しかったみたいですね。親だけでなく、川崎という地域に育ててもらったと思っています。

 

スポーツもかなり熱心にやっていましたね。少林寺拳法や水泳、ミニバスケや中学からは部活でサッカーも。少林寺拳法では小学校5年のときに国体で2位に入るなど頑張っていたのですが、夢中で打ち込んでいたというより、まわりの友達がやってたから続けていたような気がします。

 

いま思うと当時の僕のモチベーションは、「どうやら治安が悪いらしい、この川崎から一刻も早く出てみたい」という、その一点だけでしたね。

たしかに街に育ててもらった感覚はあるのですが、同時に、明らかにルーツを外国に持つ先輩たちの多さ、やんちゃして事故死する同級生が存在する、そんなまちでもありました。漠然と感じた畏怖に対して、自然と自己防衛の日々を過ごし、少し息苦しかったことを覚えています。

 

いわゆる学区外の高校に進学。グレたりはしませんでしたが、校風がかなり自由だったこともあって、短髪・金髪・ジャージで登校したり、音楽系の部活に入ってライブに打ち込んだり。生涯付き合える友人にも出会えましたし、高校時代はかなり楽しかったですね。 

 

 

大学で味わった心境の変化

 

大学は上智大のフランス語学部に入学しました。テレビ局での番組制作をしたいと思って中学校1年のときに先生に相談したところ「語学を学べ! そして大学は上智がいい! 競争の激しい他大学はやめておけ!」と力説されて、その言葉を信じていきました。

 

フランス語専攻だったので、大学2年の夏にフランスに短期留学しました。それが僕にとって初めての海外体験だったんですが、“海外の人”というだけでガンガンコミュニケーションを取ってきてあっという間に歓迎される、そんな期待と希望を抱いていたのが、たまたま僕のホストファミリーは必要以上に干渉してこないタイプで。

「賢太郎の時間を大切にしなさい」と言って基本的には干渉されることなく、僕には、“自己尊重”というポジティブという捉え方を通り越して、“エゴイスト”に映ってしまいました。それと同時に地元・川崎のことが思い浮かんだんです。

 

よく言えば人情味あふれる地域柄で、悪く言えば必要以上におせっかい。そういう両親や地元のおじさん・おばさん、友達との生活とフランスのそれが真逆だったもので、突発的な感情ではありますが、どちらがリスペクトすべき人物像なのかわからなくなってしまったんです。

 

帰国後、気づけばフランス語へのモチベーションが一気にダウンしてしまって、アルバイト三昧の日々が続きます。稼いだお金はパチンコやスロットに使いまくり、ついには借金も作ってしまうほどにハマってしまい……まあどうしようもない生活を送っていました。

 

 

転機を経て、進みたい道へ

 

転機となったのはゼミです。国際政治経済の研究室に入り、グローバリゼーションによる煽りを受けた世界の貧困地域の存在と、そこで住民自らの手により地域を再生させていく手法を学びました。それまでの大学生活を取り戻すかのようにかなり打ち込みましたね。

 

そうした中で、僕の中で、あの“エゴイスト”なフランス人よりも、協調性を持ち、他者へのおもてなしの心を持つはずの日本人は、自らの地域や社会に向き合いきれているか。

自らも社会の構成員として作り手側ながら、社会で苦しむ人たちに対して、見て見ぬふり・事なかれしていないか、と疑問に思うようになり、もっとうまく都市や地域を循環させる、それを仕事にできるかというように考え始めました。

 

それまでは語学を活かして、商社などを中心に就活していたのですが、いったんリセットして公務員試験を受けることを決意します。

ゼミで勉強したさまざまなテーマの中で、そのときに最新の社会問題に触れるには、最前線でそれぞれの処理対応をしている行政機関に勤めるのが一番だと考えたからです。

 

国家公務員は現場ではなく、より俯瞰的にスケールが大きいことに取り組んでいるので、自分はより現場に近い地方公務員が向いているのではないかと思いました。

地元でもあるのはもちろん、相対的にネガティブなイメージが先行する中、特にちょっと変わったことをやって風穴を開けるとすれば、のびしろが大きい(と感じていた)と川崎市だろうという思いから、地元で働くことを目指します。

 

試験勉強は半年間、毎日10時間くらい勉強しまくってやりぬきました。いま思うと大学受験のとき、学校の授業ではなく自主勉強で取り組んだんですが、あのときに身につけた詰め込み型のやり方が活きたのかもしれません。

 

 

 

川崎市で働き始めて

 

川崎市役所でまず配属されたのは区役所の市民協働イベント担当でした。川崎市には7つの行政区にそれぞれ出先の区役所が設置されています。

そこで、市民や企業、大学と協力連携して地域課題を解決するイベントを企画運営する業務を担いました。特に、産学連携プロジェクトは印象的でした。

 

私が担当した業務は、専門的に言うと、法定受託事務(法令に基づき、国や県の関与を要する事務作業)ではなく、自治事務(いわゆる、自治体の裁量で行うことのできる事務作業)という業務の範疇にその多くを占めていました。窓口業務で、平日の9時~17時に終わる、世間に知れた“役所っぽい仕事”ではないことばかりでした。

 

働き方も、夜中に委員会に出席したり、土日のイベントに参加するなど、連携する市民や企業のワークタイムに沿った形でした。ですが、地域の方々と二人三脚で、楽しみながら「自分たちに何ができるか」を模索していくことにやりがいを感じました。

 

働き始めて4年目に、東京大学が地方自治体の職員向けに整えた産学連携研修制度に川崎市がエントリーする機会がありました。異業界の連携をより深く推進する力を鍛えるため、庁内選考を経て出向させてもらえることになります。大学の産学連携推進本部の一員として、大学の技術と自治体のリソースを使って課題解決に取り組む研究やプロジェクトへのOJTは大変価値多きものでした。

 

任期は1年。初めてのことだらけで多種多様な分野にわたるインプットに時間がかかり、さらに1年の延長を認めてもらって東京大学と川崎市との共同研究をローンチすることに成功。翌年度からは川崎市へ戻り、産学官連携で進める再開発プロジェクトを3年間担当、今年4月からオリンピック・パラリンピック担当に異動し、さらにキャリアを拡げています。

 

 

公務員として、ひとりの川崎市民として

 

今後は、市民が自ら住む街の価値づくりにどんな影響を与えうるか、それによる課題解決の在り方を探求していきたいと思っています。街づくりカフェ、市民ファンドの構築、市民が感じているさまざまなモヤモヤを解消する機能づくりなど、市民の身近な存在として寄り添うセクターを作り続けていきたいですね。

 

そのうちの一つが、幼少期から育った川崎大師周辺のイベント企画です。家族が安心して朝も夜も遊べる街を実現するためにサイレントディスコを実施するなど、街の未来を切りひらく活動に注力していきたいと思っています。

けっして大々的な動きではないですが、行政マンというポジションでの実践と一市民活動者として実践を両輪で回しながら、無理ない未来のあり方を小規模からでも実験的に続けていきたいですね。

 

ただ、大前提として自分が面白いと思えないことをやるのはNGにしています。やっぱりワクワクがないと続きませんし、世の中の変化に順応しながら常に現場の第一線に立っていたい。

そうして行きつくところに、地方公務員をしながらベンチャーの社長になれるような新たな公務員の形「第三の道」があるのかを模索していこうと思っています。