留学・旅を踏まえて、アカデミックの道を突き進む

身近にいそうな誰かの人生観をはじめとしたキャリアストーリーをお届けするインタビュー記事。第9回は、アカデミックの道を突き進んでいるリサさん。留学や旅を通じて感じた経験から、アカデミックの道を歩むに至るまでの考え・苦闘について、語っていただいた。

 

とにかく勉強が楽しかった中学・高校

 

振り返ると中学時代は勉強しかしていませんでしたね。自分で言うのもなんですが、ひと言で「ガリ勉タイプ」。そこにアイデンティティを見出して、「私は、勉強が、好きなんだ!」と自分に言い聞かせるようにしていました。

 

高校は地域で一番の進学校に入りたかったのですが、体育が苦手で内申点がもらえず先生からは「大学受験で頑張れ!」と言われてしまい、第一志望の高校は断念。

高校生でもやっぱり「ガリ勉さん」でしたが、やればやっただけ伸びるこの時期、勉強そのものが楽しかったですね。

 

部活もちゃんと……って言うほどやってなかったかな(笑)。

友達に誘われて茶道部に入ったんですが、週に1回お茶を立てて、おしゃべりしながら茶菓子を食べてただけです。完全なオタクだったんですけど、脱オタクしたい気持ちが強くて、似たタイプの子たちが集まる文化系の部活は避けていましたし、かといって練習が大変そうだった吹奏楽部も却下。いずれにしても勉強が楽しかった中学・高校生時代でした。

 

 

初めての留学経験で価値観が変わる

 

やるなら一番をということで、大学受験では地元で一番の名古屋大学しか見ていなかったのですが、センター試験で失敗して、第一志望の法学部ではなく経済学部に入学しました。

数学が苦手ということもあって、入学してしばらくは「学部を間違えたかな」と後悔しきりだったのですが、世界史が好きということで選んだ歴史系のゼミが大当たりでした。

 

先生がとてもユニークな方で、歴史・哲学の分野から現代社会につながる流れを紐解いて教えてくれたことで、なんというか……世界の構造が見えたのと同時に、“自分にとっての世界”が一気に広がった感覚でした。

 

そんなタイミングで親戚のおばさんに、「短期間でもいいから海外で生活してみるといいわよ」と勧められ、大学2年生のときに1カ月だけ、ニュージーランドのオークランドに語学留学することに決めました。

 

見るもの聞くことすべてが新鮮でしたね。通っていた語学学校の先生は40代の男性だったのですが、午前中しか働いておらず、子供はいるけど事実婚。パートナーの女性は学生をしているため、午後は先生が子供の面倒を見て、週末は自分でバンドを組んで楽しむ生活……。

 

「生きる」ということへの価値観が変わりました。日本の会社でフルタイムで働くだけでなく、それ以外の選択肢もあるんだということに気づき、働き方や生き方、これからの自分について真剣に考えるようになりました。

 

 

いまも強みとして活きる韓国留学

 

帰国後、すぐにでもまた留学したいと思ったのですが英語圏は人気で、学校からの留学制度を利用するには競争相手が多くてパス。

そこでちょうどそのころ韓流ドラマをよく見ていて、韓国語の響きが好きだし、大学の授業でも選んでるし、日本と距離も近いしという理由から、韓国に留学することに決めました。

 

当初は言葉が出てこずに、かなり苦労しました。ニュージーランドのときは語学学校に通っていたので、勉強や生活面などのフォローが“お膳立て”されていたのですが、今回は交換留学。

まわりにいるのは韓国の学生ですし、留学生は留学生でコミュニティができていたため、なかなか輪に入れず、馴染めない時期もありました。

 

それでも半年ほど経って、「楽しまなくっちゃ意味がない!」と開き直ってからは自然と韓国語が聞き取れるようになりましたし、言葉が自然と出てくるようになりました。

学校の掲示板を利用して友達を募集するなどして、一気に輪が広がりましたね。いまも研究で韓国語を使っていますし、語学力が私の強みになっていると思います。

 

私は10代のころから自分のことが嫌いでした。だから自分を変えたかった。その手段が留学だったんです。最初にニュージーランドに行ったとき、英語でしゃべるとキャラクターが変わるというか強気になれる自分に気づいて、「ミスってもいいからとにかくしゃべろう!」という気分になりました。「環境は人を変える」ということを教えてくれた留学経験でしたね。

 

 

雰囲気と「なんとなく」で決めた就職先

 

韓国留学から帰ってきて進路を考えたとき、先生や友達から「大学院なんていいんじゃない?」と言われましたが、大学院に進むと就職口がなくなるイメージがあったので、まずは仕事がしたいと思っていました。

 

ただ、私の親が工場を経営していたこともあって、会社員という働き方にピンときていなかったのが正直なところ……。しかも1年留学して帰国したのが大学5年の6月。

一般的な就職活動シーズンは終わっていたので、説明会で見つけたよさそうなところに直感でエントリーシートを出したら、すぐに内定が出ました。

 

自分自身が働いているイメージもなく、適当に決めてしまったのが正直なところです。何が向いているかもわからないし、業界すらしぼれない。

仕事内容も、そもそも自分の志望動機すらわからない。面接や説明会で楽しくしゃべれるところだったらきっと大丈夫だろうと、気楽にやっていました。会社の決め手となったのは、説明会に社員が子供を連れてきていたから、ですし(笑)。

 

 

旅での気づきが、いまの自分を作っている

 

内定をもらった後は、モロッコとネパールを旅してまわりました。特に印象に残っているのはモロッコですね。砂漠で出会った日本人女性と行動して、ラクダツアーや遊牧民の家にもいっしょに泊まりました。

 

そこで暮らしている遊牧民のお母さんは、砂漠のど真ん中にテント張って生活して、ポリタンクを担いで井戸水を汲み、料理をして食べて、日が暮れたら星空の下で眠るというシンプルな生活をしていました。

何もないところの暮らしでも、満面の笑みで幸せそうにしているお母さんの姿から、「日本で生きること」の意味を思い直すようになりました。

 

いま見ている現実がすべてではなく、世界のどこかではまったく別の生活が、時間の流れがあるということを経験できるのが旅の力だと思います。

モロッコもネパールも、そしてニュージーランドも韓国も、現地で感じた一つ一つのことが私の中に残っていて、いまの自分を支えています。

 

 

“日本で働く”という貴重な経験

 

新卒で入社したのは鉄材を扱っている商社でした。女性初の営業職として、サプライヤーさんを訪問して納期管理や生産管理などを担当していました。

 

ところが入社1年目に起こったリーマンショックの影響で、業績がガクンと下がり、結果的に1~2年目はものすごく暇でした。

給与は会社規模のわりに悪くないと思っていましたが、将来が見えなくなってしまったことから、だんだん別のことに興味がわいてきました。

そのキーワードが「社会貢献」だったんです。

 

そこでまずは名古屋にあるNPO/NGOの中間支援団体・名古屋NGOセンターに行って、興味ありそうな活動をしているNGOを探してみた中で出会った一人が、NGO職員になる研修を受けていたことから、私も参加。

ちょうど仕事が忙しくなってきていたので両立が大変でしたが、このときの研修がターニングポイントになりました。

 

それまでは“ノリと勢い“、そして“長いものに巻かれろ”タイプでしたが、「NGOで働く」という目標を持ったとき、「自分の人生を自分で決めないでどうするんだ?」と思うようになりました。

通勤電車の中で決意したその瞬間の光景は、いまでもハッキリ覚えています。そしてNGO職員研修が終わったら、会社を辞めてNGOで働こうと思っていたところ、会社の方から納得のいかない社内異動の打診を受け、それを機に退職しました。

 

誤解ないように言っておきますが、社会に出たのは本当にいい経験になりました。

一度日本企業で働いた経験から、社会全体を冷静に見られるようになりましたし、社会が内包している問題に直面することも貴重な経験でした。

女性ということで差別を受ける経験をしたり、そのことがきっかけでフェミニズムに興味を持つなど、自身の広がりや興味の振り幅を確認できた有意義な時間だったと思います。

 

 

大学院~助教経由、その先に続く“まわり道”

 

そんなとき、たまたま大学時代の先生に会って「会社辞めるんですよ」と言ったら「大学院おいでよ」と勧められ、社会貢献を仕事にする上でまだ勉強したいこともあったので、1カ月後の院試を受けてなんとか合格。

修了後のことはあまり考えていませんでしたが、修士課程に進むことに決めました。

 

修士の2年間はとにかく勉強が楽しかったですね。そしてそのまま博士へと。

先生に「どこかの会社に入っても、またすぐ辞めるでしょ」と言われて自分で納得(笑)。

確証はないけれど、社会貢献をするならNGOで働くよりも研究者として頑張ったほうが自分に合っているし、そもそも人に使われるということがあまり好きじゃないなら、やれるところまでやろうと思うようになりました。

 

そうして進んだ博士課程。研究は結果が出るまで非常に時間がかかるということもあり、勉強がとにかく大変で、やればやるほど自信がなくなっていきました。

受験勉強だったらやればやるだけで伸びましたが、研究は答えがそもそもあるのかわからない状態で闇雲に進むしかないので、ゴールに近づいているのか離れているのかすらわからないんです。

 

昼夜が逆転する生活が2年くらい続いて、体調を崩すなどツラい時期もありました。

それでもなんとか生活リズムを立て直して健康的な生活を心がけ、博士論文を提出して修了要件を満たしたのとほとんど同時に助教のポストが空いたので、将来のことは深く悩まずやらせてもらうことにしました。

 

助教の任期は2年。その後、他の職場に就職しないといけないことが決まっています。いまは名古屋大学の他にも2つの大学で非常勤講師として働いていますが、できれば常勤ポストに就きたいですね。

 

 

自分のキャリアにもとづくアドバイス

人間関係の振り幅は広いにこしたことがないです

。学生時代の仲間との連絡を欠かさないのはもちろん、忙しかろうがお金がなかろうが興味があるイベントに参加したり、いろいろな場所に行ってそこで知り合った人との新しい出会いを楽しむようにしています。

 

もし、アカデミックなポストにつきたいという人に、何か私が言えることがあるとすれば、どんな先生につくかはぜひ真剣に選んでほしいです。

先生との相性が本当に重要。あと必要なものは、どれだけ無理なスケジュールでも論文を書くことができる強靭な体力と精神力です(笑)。