学生時代に見出した仕事軸から成長を続けるキャリア

身近にいそうな誰かの人生観をはじめとしたキャリアストーリーをお届けするインタビュー記事。第14回は、地域の不動産屋で広報として働く松田 志暢さん。地域の末っ子として育った幼少時代から、大学時代に見出した仕事での軸を終業後も発揮し続け、活躍するフィールドを広げているその歩みを、丁寧に語っていただいた。

 

地域の末っ子としての幼少期~高校時代

 

地元は北海道の函館市──といってもみんなが知っている“観光地の函館”ではなく、市街地から車で30分ほど離れた知内というところで生まれ、中学生までそこで育ちました。

実家が林業をやっていることもあって、家族だけでなく地域のいろいろな人にかわいがってもらう“地域の末っ子”的な存在でしたね。

 

当時はかなり感情の起伏が激しい方だったと聞いています。

今思うと3歳のときに両親が離婚したからか、心のどこかに孤独を抱え込んでかもしれませんし、もしかしたら意識して感情を抑え込むこんでいたのかも。

 

頼りにしていつもくっついていたのは5歳年上の兄です。学校でもジャイアンのような存在感でした。

兄がやっていた柔道教室について行くうちに、私自身も習うようになりました。

 

勉強はいつも楽しかったです。同級生が6人しかいない小学校でしたが、熱心な先生たちが教育をリードしてくれて一番勉強ができた時期かもしれません。

 

小学校で想い出深いのは「総合学習」の授業ですね。

「授業で空手をしたい」という生徒がいたら、言い出した本人が場所を探し、貸してくれる人へお願いをして実現につなげていきます。

もちろん先生が事前に地域の方々にお願いをしているのですが、やりたいことはどういった過程を経て実現するかを体験できたのは貴重でした。

 

そんなこともあってか、地域への意識は人一倍強かったですね。

一方で、小中学校時代に初めて札幌や東京といった都会に行ったときの衝撃、いつも遊んでいた昔からの仲間以外の人たちとの出会い、スポーツを介した他のエリアとの交流など、外の世界への意識が自然と高まっていきました。

 

高校では親元を離れたいと思っていたので、下宿をしながら函館市内の高校に通っていました。

地域の公立進学校で自由な校風。私服通学で有名なところでした。実家には半年に1回ぐらいしか帰らず、バスケと音楽に夢中でしたね。

 

 

大学生活での自分磨き

 

その後、高崎経済大学の地域政策学部に進学します。

「地域づくり学科」という珍しい学科があったのが入学の決め手です。

地元に戻るたびに地域がすたれていく現実を目の当たりにして、自分にできる何かを探したかったのと、地元を離れた僕のことをいつも気にかけてくれている人たちの優しさに応えたかったのです。

 

入学してすぐは、スポーツサークルに入ったり、気が合う友達とDJをはじめたり、街のオムライス専門店でアルバイトをしたり、ごくごくどこにでもいる普通の学生でしたが、「このままじゃいけない」と大学2年のときに学部で一番厳しいといわれるゼミに入り、自分を磨くことを決意します。

 

そこは年間1200万円規模の事業を展開するNPO法人を運営しているゼミで、学生たちが上の世代の方々と協業することで、街や地域コミュニティにどんな変化があるのかを研究していました。

学生たち、つまり自分たちの意識がいかに変化していくかということも研究対象に含まれていましたね。

 

NPO法人では、ハローワークの若者版ともいえる「Job Café」の運営サポートや、コミュニティラジオ番組の運営、地域の企業と学生をマッチングする合同企業説明会の企画・開催など、県からの委託事業も行っていました。

また研究室とは別に、インターカレッジ団体では街のメインストリートを歩行者天国にして、7大学から70人ぐらいモデルを集めて、一帯を盛り上げるイベントを企画するなども精力的に行っていました。

それらの活動で地域からの期待値を高め、屋台村の店舗運営なども行っていました。

 

 

就職活動で見出した興味・関心による仕事軸

 

そうして迎えた就職活動。東日本大震災の支援活動をしていたこともあって、まわりの学生に比べてかなりスタートが遅めでした。

大手広告代理店にアプローチをしていましたが、第一志望の企業は内定に至りませんでした。

他企業で内定はいくつか頂いたのですが、出会う社員の目に覇気がなかったり、一言で言うとグッとくるところが全然ありませんでした。

 

そんなある日、震災支援活動の一貫で、高崎市に避難されていた被災者の方々にヒアリングする機会がありました。

人が生きていく上で住環境は本当に大事。そこで大家さんや不動産屋さんがどんな役割を果たしているのか、だんだんと興味が湧いてきたんです。

 

そうした軸であらためて探したところ見つけたのが、東急田園都市線の溝の口エリアの不動産管理・仲介を手がけている「エヌアセット」でした。

『ひとの夢・安心・充実に永続的に貢献する』という経営理念に共感して、Facebookのメッセージで直接社長に問い合わせて会う機会をもらいました。

 

実際に会ってみて、新陳代謝や新規事業に対するスピード感など自分にとって理想の社長像に魅了され、面接を受けることになります。

採用のプロセスで会った社員全員が魅力的でしたし、社会人としての筋力もつきそうだと確信して入社を決めました。

 

 

 

地域価値向上にコミットする広報担当になるまで

 

入社した直後、いえ入社前から社長を含めた社員全員が「松田さんは何をやりたいの?」と聞いてくれました。

そのころ「地域価値向上」というキーワードがまったくない会社でしたが、自分が街と企業の広報担当になることで地域におけるエヌアセットの立ち位置を変えたいと言い続けました。

もともと僕は不動産業界ではなく、広告代理店を第一志望として就職活動をしていたので、社内では「変なのが来た」と思われていたようです(笑)。

 

ただ、まずは不動産業界のことを知らないと話にならないので営業として2年半ほど働きました。

営業成績も順調で、次年度以降もどのように動いていこうか考えていたところ、ある日突然の辞令が。社長直下で《ワクワク広報室》というセクションを新設。

営業職社員を非営業職に置くことに反対もあったようですが、各部長に理解・応援して頂いたのはありがたかったです。

 

目に見える目標数値へのコミットから、可視化しづらい業務に移りましたが、自分がチャレンジしてみたかったことを担当させてもらえるのは本当にうれしかったです。

地域の行事に積極的に参加して地域の課題をヒアリングしたり、業種を超えて地域のキーパーソンと連携するために飲み明かしたり……。

これまでやってきた不動産会社の営業とはまったく違う業務に力を入れていきました。

 

CAREER PLANTSの運営会社Re-CHが入居しているシェアオフィス「nokutica(ノクチカ)」には、プロジェクト開始時期から主担当として関わっています。

いまでは全体を統括する管理人として、日々入居者や来訪される方々とのコミュニケーションを通じて、地域やnokuticaという空間に必要なものを考えています。

 

 

多拠点と関わるこれからの自分像を求めて

 

これからは現在の生活の基盤がある溝の口、生まれ育った北海道(知内・函館)、そして人生の分岐点となった高崎という3カ所に関わりながら働いていきたいと思っています。

何らかの形でそのエリアに貢献していきたいですね。

 

やりたいことは漠然とあるのですが、いかに実行に移すかでいつも悩んでいます。

ただ、そんなことを発信しつづけているといろいろな人からお声がけをいただくようになってきて、小さな成果が少しずつ生まれてきてはいます。

ただ、それと同時に「自分は何のプロフェッショナルなのか?」という仕事軸への葛藤もあります。

どの分野における専門性を伸ばしていくべきか自問自答する毎日ですね。そんなモヤモヤをなくしていくためにも、まずは担当している《ワクワク広報室》を地域にしっかりと根付かせ、次の世代を見すえた施策や人材育成ができないかを考えているところです。

人生は選択の連続です。ただ選ぶことも大切ですが、選んだものが最適解になるように努力することを、僕は強く意識しています。