身近にいそうな誰かの人生観をはじめとしたキャリアストーリーをお届けするインタビュー記事。第8回は、美大からデザイナーにチャレンジしつつ、最終的にはジュエリーのマーケティングに携わっているK.K.さん。学生時代の体験が今に至っているその経緯について、語っていただいた。
人生観が変わった高校時代の貴重な友人
「やり始めたことは徹底的にやりなさい」という両親のもとで育ったこともあって、4歳で始めた剣道は中学時代も続けました。
当時住んでいた秋田県で国体の開催が予定されていたことがあり、1年生の二学期に突然厳しい先生が来て部内の雰囲気が一変。強化体制を整えるべく猛練習。
県大会1回戦負けのレベルから東北大会ベスト8.に食い込むレベルにまで一気に成長しました。
その流れで高校でも剣道をやろうと、毎年県大会で優勝している強豪の進学校に進むことになりました。
しかし、練習は本当に大変でしたね。朝は5時の始発に乗って、1時間半かけて学校に通い、家に帰ってくるのは早くて21時半。
文武両道を重んじる高校だったのですが、授業はホントに眠くてしょうがなかったですね(笑)。
「こんなにツラい練習するぐらいったら死んだほうがマシ」と思ったことも(笑)。
チームの仲間がいたからこそ頑張れたと思います。
なんとか、本当になんとか2年半やりとげて、卒業後の進路を考えたとき「美大に行きたい」という想いが浮かんできました。
絵を描いたり、ものづくりをするのが好きでしたし、中学生時代から美大への憧れがあったのを思い出して、インターハイが終わった後から美術漬けの毎日。
デッサンの練習をはじめるなど、一気にそれまでのライフスタイルや思考回路を変えるような転換となりました。
当時、美大とひとくくりでいってもどんなジャンルがあるのかもよくわからず、ぼんやりと将来は“デザイナー”とか“イラストレーター”になりたい、と考えていました。
しかし、そのころちょうど自分の人生を深く考えることのできた友人との出会いもあり、人生観や自分の生き方・死に方みたいなことをしっかりと考えるようになりました。
それまでは表層を装い、自分が「違う」と思ったことでも笑って過ごすことや、流されるままに物事を決めていたことが多かったですが、自分で意思を持つことの大切さや、本質を見抜く目をこの頃に養ったように思います。
それから、美術の中でもより人間や生きることへの深い問いかけをしている、「芸術」というジャンルに目覚めるようになります。
周囲の才能に揉まれながら自分らしさを模索した美大時代
高校時代に過ごした秋田県には美術系の予備校が少なかったので、高校の美術の先生に頼んでアトリエに通い、デッサンを教わりました。
第一志望は京都造形芸術大学。「芸術で人類の平和に寄与する」という大学の理念に共感したこと、カリキュラムが自分に合っていると考えて受験、そして入学を決めました。
意見の合う・合わないに関わらず、美大に入ったらいろいろな人と議論したいと思っていました。
1,2年のときは美術工芸コース(ファインアート)に所属して、油絵、日本画、染織、写真、版画、などいろいろやっていましたが、これまでの枠組にはまらない創造に挑戦したいと考え、3年生で新設された「総合造形コース」に転籍を決めます。
物事の事象をなんでも使って表現することが認められていて、そこに込めるコンセプトさえ確立されていればツールは自由、何を使ってどう表現してもOKというユニークなコースでした。
ただ、コンセプトを考えるのは簡単ではありませんでしたね。作りたいイメージ(作り方)がどうしても先行してしまうので、毎日ホントにうなっていました。
美大から一転、就職してから体感した「自分のやりたいこと」
大学3年生のとき、真っ先に就職活動を始めました。なぜかというと、ビジネスというものに興味があったのです。
まわりの友達はほとんどがアーティストを目指しており、大学院を目指す人も4割ぐらいいました。
私は合同説明会で話を聞いた数社の中から大阪の印刷会社の内定をもらい、3年生の3月時点ですぐに就職活動をやめました。
新規事業への取り組みが面白そうだったのと、自分のアクションがすぐに結果に結び付きやすいと考えて、中小企業への就職を決めました。
就職が困難な時代だったということもあります。
受かったことの方が奇跡だと考えていましたから、今となってはあっさり過ぎるくらいだと自分でも思うのですが、全く高望みはしませんでしたね。
当初「デザイナー志望」で受けたんですが営業部に配属。
本意ではなかったものの、そこで精いっぱい楽しもうと思い、導入研修ではビルの上から下まで全部回って、チラシやポスター、名刺などの印刷案件を取ってくる飛び込み営業をしていました。
研修終了後、立ち上がったばかりの名古屋支社に配属が決まりました。
企画セクションがなかったので営業部所属ながら編集企画をやることに。美大時代の経験も活かせそうでしたし、喜んで名古屋に行きました。
1カ月近く深夜残業が続く日もあり、入社して厳しい環境に身を置く形となったので、臆さない度胸と体力はついたと思います。
今では信じられないぐらいのブラック企業だったと思いますが、人生の経験としてプラスにはなっていると思います。
その後、親会社に統合されて、リーマンショックが起きて……かなりジェットコースター的に動きがありましたね。
仕事内容は毎年変わっていました。
統合されて1年目はドラッグストアやフィットネスジムの冊子など編集仕事がメインでした。
企画から編集、インタビューにライティング、印刷の手配まで、DTP以外のほとんどすべてを全部自分でやってました。
リーマンショック後は編集の仕事がほぼなくなって、自分がこの会社で生き残るために営業をしないといけないと思い、誰に言われることもなくテレアポをするようになりました。
それを見た部長に営業ができそうだと思われ、編集から一転、営業部員に。売上管理、企画提案、新規開拓も行いました。
まわりからは、その会社で最初の女性の役職者になり、会社を変革していくことを期待されていました。
でも、自分にはその大きな企業を自分の手で改革していく自信もスキルもありませんでした。
そんなある日、大手小売量販店からの依頼でA3のタブロイド紙の制作案件を請け負うことになりました。
企画から携わり、1年がかりで力を入れていたプロジェクトだったのですが、結果的に印刷した部数の大半が破棄することに……。
会社としては売り上げが立ちましたが、クライアントの「捨てるしかないね」と言葉を聞いて、エンドユーザーに価値が届かないことを平然とやっていくのはいかがなものか…と疑問を感じるようになりました。
そこで転職を考え始めたのですが、何を仕事にするか、非常に悩んだ結果、本当に必要とされている仕事、本当に人に喜んでもらえる仕事がしたい、人の笑顔のために人生をささげたいと考えました。
そして、国際協力や、社会起業家などの道を模索し始めます。
巡り巡って辿り着いた、新しい働き方
ジャーナリストやワーキングホリデー、社会起業家など、いろいろなキーワードがぐるぐる巡って、最終的にすとんと腑に落ちたのが、ものづくりで社会貢献をするということ。
あるフェアトレードのアクセサリーブランドの店舗運営の仕事でした。
業界のことも販売の店舗勤めも経験がなかったですが、すぐに引き受けようと思ったのは、マネジメントができて、ものづくりで世界を豊かにしていくことができる、そしてものづくりをしながら人を幸せにできる仕事だと思えたからです。
営業や交渉事、販促やプロモーションの経験はありますし、力になれることは少なくないかなと。
あとはお客さんとの距離が近くて、お互いの顔が見える仕事がしたかったんです。実際にお店で働き始めると、お客さんの笑顔が見えることがこんなに幸せなのか!と思うようになりました。
どのような形態でも自分の仕事に誇りを持ち、いきいきと仕事をできることが幸せだと感じます。
今では、このアクセサリーブランドの、ブランディングで培った経験を活かし、大学生時代に大好きだったアートのプロモーションをできないかと、次のキャリアを模索しています。
まだ活動始まったばかりですが、良い意味で相乗効果の出せる環境にいるので、うまく自分のビジネスとして軌道に乗せていきたいですね。